2019.10.22

AFが未来だった時代 Vol.2 AFの革命児 MINOLTA α-7000 

オールドレンズポートレートフォトグラファーの上野由日路です。今回から数回にわたり「AFが未来だった時代」と題してAF黎明期の機材を紹介していきたいと思います。1970年代に、自動露出カメラ(AEカメラ)で世界にどんどん進出していった日本のカメラメーカー。そして1980年代にはさらに先進的なカメラを目指してオートフォーカスカメラを次々と発表していった。当時オートフォーカスカメラは未来のカメラの象徴であるが、実用化は困難と思われていた。しかし日本のカメラメーカーはあっという間に難題を解決してオートフォーカスカメラ全盛期を築いた。未来を目指して邁進した日本カメラの足跡を紹介していきたい。第2回目は世界初のAF一眼レフカメラシステムのMINOLTA α-7000だ。

1985年MINOLTAから発売されたα-7000は世界初のAF一眼カメラシステム※だ。このカメラの登場以降ついに本格的なオートフォーカス時代に突入する。前回紹介したKONICA C35AF「ジャスピンコニカ」の発売年を1977年だったことを思うと実に8年の歳月を要している。遅すぎるという印象もあるが実はコンパクトカメラと一眼レフカメラのオートフォーカス化には大きな壁が立ちはだかっていた。それがピント精度だ。CF35AFではレンズの被写界深度を深く取ってピント位置を11段階に区分けするゾーンフォーカスシステムによりある程度の精度でもオートフォーカスが実現できた。しかし一眼レフではある程度のピント精度では許されない。レンズ交換も可能で被写界深度が非常に浅いレンズやマクロレンズなども存在する一眼レフではピント精度が飛躍的に上がるのだ。しかもピントにうるさい一眼レフユーザーの厳しい目もある。それらを実現するのは容易ではなかったのである。各メーカーが最初に目をつけたのはCF35AFでも採用されたハネウェル社のオートフォーカスモジュールをTTL(レンズ透過式)にしたTCLモジュールであった。TTLにすることでレンズの種類を選ばなくなるので一眼レフには最善の方法に思えた。当時CF35AFで先行していたハネウェルはさらに研究を重ねTTL(レンズ透過式)のオートフォーカスモジュールTCLの実用にあと少しのところまで来ていた。TCLはCF35AFのVAF(ビジトロニック)と異なるピント検知方式を採用していたが原理は位相差式のオートフォーカスであった。当時国内で10社近くがこの方式の特許使用料を支払っておりミノルタも例外ではなかった。当初ハネウェル社製TCLを使ったオートフォーカス一眼レフ開発に着手していたミノルタであるが、ミノルタの要求に対するハネウェルのレスポンスが悪く思ったような性能を実現できなかった。痺れを切らしたミノルタ技術陣は自力国内でのオートフォーカスモジュールを開発する道に切り替えた。ミノルタは東芝の協力のもと独自のオートフォーカスモジュールの開発に成功する。ハネウェル社のTCLはコントラスト方式レンズのヘリコイドがピント位置に来た時に合焦を検知する方法を採用していた為、実際にピントを移動しながら測定を繰り返しピント位置を割り出す必要があった。具体的にいうといくつかの測定ポイントの画像がぴったり一致するまでピント位置を動かし続けるのだ。例えるならば金属発見器でお宝を探すように何度も行き来する感じだ。結果ピント合わせに時間がかかるのである。それに対しミノルタは同じ位相差検知式でもピントのずれ量を検知する方式を開発した。ピントのずれ量がわかるので、ずれた分レンズのヘリコイドを動かしてやればピントが合うのである。そのことにより圧倒的にピントあわせが早くなるのだ。

※文章に不正確な記述があったので修正しました。(2019/12/30)

α-7000のカタログを見るとこれまでのカメラとα-7000が全く違うことが分かる。これまでのカメラが機械仕掛けだったのに対しα-7000は完全にデジタル化されている。本体に搭載されたAFセンサーと8bitCPUによりピント位置を演算するのだ。その演算に必要なレンズのデータはレンズ内に256バイトのROMとして収められマウントの電子接点を使ってデジタル信号としてCPUに送られるのだ。AFセンサーには128画素のCCDが使われていて、レンズから入ってきた光は赤外線カットフィルターを通り、コンデンサーレンズを通った後セパレーターを介してCCDに到達する。その入力された信号のギャップをAF専用のCPUで演算してレンズの繰り出し量を割り出している。ちなみに露出の演算や絞りシャッタースピード、インターフェイスやアクセサリの制御はもうひとつのCPUで並列処理している。現代風に言うとデュアルCPUを搭載している。α-7000は世界初のオートフォーカス一眼レフであると同時に完全にデジタル制御されたカメラだったのだ。もちろん現代のデジカメに比べれば圧倒的に劣るスペックであるが現代のデジカメに繋がる技術を体系としてすでに確立していたのだ。

この差は同時期に発売されたOLYMPUS OM-707と比べると顕著だ。ピント位置を探りながらそろそろと動くOM-707に対しピント位置に最速のスピードで動くα-7000のオートフォーカススピードは圧倒的で1世代以上の差を感じる。こうして圧倒てきなAF性能を持ったミノルタは新しくαブランドを立ち上げ世界初のAFカメラシステムとして大々的に発売された。夢のオートフォーカス機能を搭載したα-7000はまさに未来から来たカメラのようだった。世界的に大成功を収めすぐにフラッグシップ機であるα-9000も投入された。デジタル化されたアクセサリーも革新的でフラッシュ自体にマイコンを搭載したプログラムフラッシュはレンズの焦点距離に合わせて自動で照射範囲を調整し、本体と連動して自動的に光量も調整する。また暗いシチュエーションでのオートフォーカスを補助する為の赤外線フォーカスのユニットを搭載している。デジタルバックもマイコンを搭載してデート機能だけでなく撮影データの写し込みやプログラム露出制御機能まで持ち合わせているのだ。この恐ろしく緻密で革新的なオートフォーカスシステムをオートフォーカスの誕生から僅か8年で達成してしまうあたり、当時のミノルタの圧倒的な技術力を垣間見ることが出来る。

一方、ハネウェル製のTCLモジュールは性能的にミノルタに惨敗してしまう。ハネウェル社のオートフォーカスを搭載していたOM-707の後継機OM-101はオートフォーカスではなくフォーカスエイドを採用したのがそれを象徴的している。オリンパスはこのカメラを最後にレンズ交換式カメラ市場から撤退してOMブランドの歴史も事実上幕を閉じている(復刻や廉価版などの例外があるが)。ちなみにハネウェルのTCLモジュールはその後ムービー用カメラのオートフォーカスモジュールとして活路を見出すこととなる。日本のAF技術に一眼レフカメラ市場で惨敗ししまったハネウェル社であるが実は違う形での反撃の機会を虎視眈々と狙っていたのだ。その全容は次の話に続く。

作例  モデル1枚目、2枚目:美紀子(アーリーズ) 3枚目:ののん(アーリーズ

3枚の写真のピント部を拡大してみた。画面中心に被写体を置いたポートレート2枚は逆光にもかかわらず、かなりピントが来ている。一方鳩の写真のように被写体をセンターから外すと中抜けして地面にピントが合っている。鳩の写真は少し意地が悪いが他の写真を見る限りピント精度は十分実用域だ。

(追記2019/11/17)実は記事公開後に知ったのだがα7000にはSB-70という最終形態が存在する。ケンコートキナーホームページ内のコニカミノルタの歩みでその姿を確認できるがスチールビデオパックというデジタルバックのようなアクセサリーがあり(1987年)撮った写真をフロッピーに記録できるのだ。写真はα9000用のSB-90である(ケンコートキナーHP内「コニカミノルタの歩み」より)

まさに最終形態。非常に欲しいのであるが当時198000円だったビデオパックは当然ごく僅かしか存在せず、目にする機会はまずない。ちなみにビデオバックはデジタル信号をアナログ変換する方式でデジタルカメラ過渡期に採用された方式だ。ホームページには「α-7000, α-9000の裏ぶたを「ミノルタスチルビデオバック」に交換するだけでスチルビデオカメラになります。1台のオートフォーカススチルカメラシステムで銀塩写真の領域と電子映像の領域の2つの映像メディアをカバーすることができました。」とある。フロッピー式のデジカメといえばソニーのマビカが有名だがマビカ発売の前年にこんなモンスターを投入しているとは。ミノルタ恐るべしである。

出典

写真工業 1992年4月 Vol.50 No.40~ 1993年10月 Vol.51 No.10  「ハネウェルAF特許事件の解説」小倉磐夫 写真工業出版社

新装版 現代のカメラとレンズ技術 小倉磐夫著 写真工業出版社

国産カメラ開発物語 小倉磐夫著 朝日新聞社

ケンコートキナーHP:https://www.kenko-tokina.co.jp/konicaminolta/history/minolta/1980/1987.html

 

※世界初の一眼レフではないというご指摘をいただき表記を変更しました。